またドイツ大会の時と同じ過ちを繰り返してしまった。
それは経緯が似ていたから、ではなく、第一歩目の問題だと思う。
今回は失敗、では成功とは?
出ることが主目的だった初出場の98年フランス大会以降、日本代表にとって4度目のワールドカップとなったブラジル大会。
その結果については今更、書く必要も無いくらい皆さんご承知だと思う。
単純に言ってしまえば、グループリーグを突破出来ず、前回大会のベスト16を下回る事になり、失敗と言っていいだろう。
何故この様な結果にという模索が色々と諸説溢れているが、私はディティールレベルではない視点と言うものに注目したい。
ここで着目した点として、先ず、日本にとってグループリーグ突破、ベスト16進出という結果は、目標は優勝だ!という勇ましいスローガンは置いておいて、
冷静に、プロジェクトとして成功なのか、失敗なのかを考えるべきじゃないだろうか。
もちろん、そのラインは状況によって異なっていく物であると思うが、少なくとも私は、02年以降の4大会においては、日本代表にとってベスト16という結果は一定の成果と評すべき基準だと思う。
成功を評価せず、継続しない
4度の出場に対して、グループリーグを突破したのは2回、02年日韓大会と、10年南アフリカ大会である。
これに対して奇しくも1分2敗、同じ成績に終わったのが06年ドイツ大会と、今大会。
02年から06年、10年から14年。
失敗の2大会を比べ、様々な類似点が述べられているが、どちらも前回大会で成功し、ベスト16を経験した選手が4年後、選手としてピークの筈なのに失敗に終わったと言う点も類似している。
ただ、それらは余り意味のない類似であり、本当に良くないのは成功を正しく評価しないどころか、全く参考にすらしてないという悪手が繰り返された事が最大の問題であると考えている。
何故継続されないトルシエ路線、岡田路線
02年大会にしろ10年大会にしろ成功とは言えど、最後は負けて終わったのだから当然、課題は残る。
しかし、だからと言って全く評価せずに、現実的に見れば、メキシコですらベスト16を長く突破できない現状を鑑みれば、成功と呼べる結果であり、それに至った方策や手法を完全に放棄するのが、私には理解出来ない。
それは例えば、トルシエのチームをもっと良くしようというやり方であり、特に10年大会は皆さん御存知の通り、大会の一週間前に突貫工事で作られたチームなのだから、適したメンバー招集のレベルですら改善の幅は大きかった。
サッカーに絶対上手くいくやり方なんてものはない。
だからこそ、世界中で手探りが行われ、もし金脈を見つけたのなら財産として大事にしていく、その成功体験の積み重ねこそが歴史であり、伝統になり、独自のスタイルに結びつくものではないのか。
何故、日本という国はそれを惜しげものなく捨ててしまうのだろうか。
成功を無視してゼロベースで事を始めるのか、まぁ、新チーム立ち上げ直後は、前回大会出場者がベースメンバーになるという点では、引き継がれているとも言え、積み重ねが有るという反論はあるかもしれない。
ただ、W杯までの4年間はチームの継続に重要性を解きながら、その延長としての5年目、更には98年から4大会、16年目という考え方で、成功を継続しているとはいい難い。
いや猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、要するに日本は成功の価値、それがどれだけ困難で素晴らしいものなのか、それすら理解できていないのではないか。
日本が抱える島国コンプレックスとエトス(行動様式)
技術というものに対して特別なこだわりがこの国にはある。
それは翻せば、劣っている状況を翻す凄い力という幻想に他ならない。
これはサッカーでも同じで、特別な凄いことをしないと勝てないと言う、思い込みにつながっている。
オーソドックスを嫌い、特別な存在であることを望む。
だから、それを具現化しているスペインに憧れる。
勿論、最新の科学は常に取り入れる柔軟性というのは必要だが、そもそも模倣することが勝つ為の最善手なのか、というロジックは存在しない。
なぜ模倣するのかと言えば、彼らが特別な存在、羨ましい存在、だから故に模倣しているに過ぎないように私には見える。
FCバルセロナでプレーする日本人は一人もいないのに。
更に、それに輪をかけるのが、玉砕賛美に通じるサムライ精神である。
06年大会の後、こんな酷い記事を巻頭で載せる雑誌、二度と買うかと思ったのがサッカーマガジンだった。
内容を要約するとこんな感じだ。
「ジーコのやり方は世界のスタンダードで選手の質がそれに達していなかった、真っ向勝負は素晴らしい。」
10年以上買ってきたがそれ以来2度と買ってない。
今大会でもイランはアルゼンチンに対し、10人でゴール前を固め、最後まで抵抗したし、日本の対戦相手ギリシャは1人退場のハンデをひたすら耐えることで最終的には決勝トーナメントに進出した。
勝つため、生き残る為にギリギリの段階まで最善手を模索する。
これを遂行するには どうせなら気持ちよく負けようなどという、甘ったれた考え よりも遥かに辛く苦しい行為で、タフな精神が必要になる。
勝利がゴールに無い真っ向勝負なんてものは正に美しく散るという名の逃げであり、楽になるための自殺行為に他ならない。
日本代表とは何か?
このプロジェクトが目指すもの、サッカー日本代表は90年代以降、その役割は変わらない。
それは日本というサッカー後進国に、このスポーツを普及させるための、ナショナリズムを利用した宣伝、プロモーション活動に他ならない。
他のスポーツのオリンピックを始めとした国際大会を見ても解る事がある。
それは勝利こそが最重要なテーマであり、日本において最高のプロモーションは勝利以外あり得ない。
内容なんて、2度位ワールドカップを優勝して、ただ勝つだけじゃ評価されなくなってから考えるテーマじゃないのだろうか。
トロフィを賭けたラストマッチを11人で守りきってPK戦勝ちして、シャビに「アンチフットボールに敗れた」なんて言わせたら最高じゃないか。
内容なんてマニアックな物は視聴率70%を支える大衆に全く関係なく、出場選手は伝説の11人(イレブン)になるだろう。
最後に
2度目となる成功を手放し、失敗というゼロからのスタート。
スペインの模倣という幻想に囚われた結果、10年大会も続けて失敗を迎えそうだった事実も忘れてはならない。
失敗をディティール単位で分析する前に、成功の最善手はこれで正しいのか?と、成功を元に見直す事から始めるのが良いのではないだろうか。
旧日本帝国は簡単にいえば中国戦線を維持するためにアメリカと勝算が無い戦争を行った。
そこに最善手を模索するロジックは無かった。
だが、昔の人を馬鹿にできるほど僕らも優秀じゃないのを
この平和な戦い、ワールドカップで痛切に感じる。