横浜F・マリノス ファン

横浜F・マリノスを応援するイチファンによるブログです。

2018年の横浜F・マリノスはスペクタクルだ

絶対的な正解が存在しない世界においては、何を信じるか、という事が意味と価値を持ち、その結果として数々の宗教が存在し、その信奉者も多数存在している。

 

この点、私が応援する横浜F・マリノス(以下マリノス)は、これまで無宗教であったが、2018年からは新たな教義を信仰し、それに殉じる覚悟を決めたようだ。

 

我々が入信した宗教とは、現在の運営長たる法王は、マリノスが加入したシティフットボールグループにおける、フラッグシップチームであるマンチェスター・シティの監督グアルディオラなのは間違いがないのだが、その成り立ちから、エポックメイキングな信徒の名を表し、こう呼んでも異論は出ないであろう、クライフ教と。

 

 

私は、まさかJリーグで、それも横浜という街で、そして自らの意志とは関係なく、再び入信することになるとは思いもしなかった。

 

だから、若干話は逸れるが、この思い出を触れない訳にはいかないのである。

 

 

 

 

1996年のすれ違い

 

 

今や多くの人にとって、スカパーは”スカパー”という一つの単語かもしれない。

 

だが、かつてクライフ師の講演を生で観戦したいと願った私にとって、スカパーはスカイ&パーフェクTVであり、その出会いは1996年に起きた、苦いすれ違いの経験に他ならない。

 

当時において、オンタイムでクライフ師の講演を体験するには、ようやく始まった有料衛星放送に契約し、欧州チャンピオンズリーグを観るしか方法は存在しなかった。

 

この時に、それが可能であったのが、後にスカイTVに吸収合併される(事実かどうかは不明な私の印象)、パーフェクTVだった。

 

当時の私はまだ未成年であったが、それでも自分のお金でテレビを買い、アンテナを買い、工事費も払い、来るべき96シーズンに向けていち早く準備を済ませていた。

 

だがしかし、95シーズンが終了した直後、インターネットも民間レベルでは存在しない時代、私は彼の処刑を伝えるニュースをスポーツ新聞で目にする事となった。

 

クライフ解任

 

 

まぁ、クビにならなくても当時はリーグ3位じゃCLには出られなかったんだけどね。

 

 

 

 

 

グアルディオラの提案は何が凄いのか

 

 

マリノスに関係がない思い出話はこの辺にして、試合の細かいディティールではなく、我々が信じることになった教義について、確認をしよう。

 

 

現法王であるグアルディオラが持ち込んだ言葉について、その解釈作業を多くのメディアが試みているが、例えば下記の記事を読んでみた所で、

 

多くの人は一体、これまでの戦術とは何が違うんだ、何がそんなに画期的なのか、正直なところ、意味がわからないと思う。

 

number.bunshun.jp

-従来の戦術とは何が違うのか?

 

「ポジショナルプレーが従来の戦術と唯一違うのは、ほとんどのチームよりも、もっとフレキシブル(柔軟性)なプレーをするようになることだと思う。」

 

 

 

もっと柔軟性のあるプレーが出来るんだ、と言われて意味がわかりますか?

 

グアルディオラの提案について、如何に従来の概念に対して画期的なのかを、「おお!それは確かに画期的だね」と感じれる様に、日本人に、そしてマリノスを応援する人には馴染みの深い将棋をベースに説明してみたい。

 

 

 

・ 駒としてのタスク

 

君は香車だ、お前は桂馬だ。

 

香車の初期配置はここ、桂馬の初期配置はここ、動きのルールはこうだ、これが駒としてのタスクであり、配置される全戦力は、タスクを割り振られた駒として振る舞うというのが、戦術として基礎と言える物になると考える。

 

駒は、盤面全体や、更にはもっと小さな局面も気にする必要(知る必要)がなく、ただ、自分のタスクを忠実に消化していれば、指定されたマス目へ移動していればいい。

 

これが極めて適した組織のモデルケースとしては、万単位の人間が動く軍隊が最適だろう。

 

 

 

・ 定石(連携&セオリー)の理解

 

駒同士、駒間の連携、つまりは複数駒における連帯責任としての局地的セオリー、ルールに基づく運用というのが、更に発展した戦術であり、将棋においては定石と呼ばれるものだ。

 

2~4、の駒が、予め定められた局面における配置を連携して構築する事を目的とする。

 

駒間の相互理解による熟成が発生しやすく、サッカーにおいてよく聞かれる「まだ連携が低い」というのは、これが上手く行っていない、となる。

 

 

監督は指し手であり、準備として駒に役割を割り振り、コマを並べ(配置し)、予め定めた定石(セオリー的ルール)に沿って運用出来る様に整備する。

これが従来の手法で、各駒には一定の制限、又は、無法者と無法地帯を生み出す。

 

 

 

・ グアルディオラの提案

 

監督ってさー、実は試合中は出来る事すくねーじゃん? 

 

だから、盤面の理解方法は教えてやるから、全員が指し手になった方が合理的じゃね。

 

 

もうお前ら駒をやめろ、更にただの棋士じゃダメだ、全員が常に最適解を探す、コンピューター将棋のようなAIになれ。

 

私は、これこそがグアルディオラの提案に潜む画期的要素であり、ボードゲームとして見た場合における、レイヤー(階層)の飛躍的突破という、とてつもないパラダイムシフト(革命的転換)であり、その根源は、盤面の理解(評価)方法と最適化手法の習熟だと考えます。

 

 

 

 

盤面の新理解方法 人類を越えたコンピューター棋士の画期的手法

 

 

number.bunshun.jp

 

もはや、大きくスペックを下げたマシンに搭載されたソフトにすら、その道を極めた人類最高峰のスキルでも勝てなくなっています。

 

そのブレイクスルーになったのが、人間的アプローチの放棄です。

 

 

極めて簡単に端折って説明するので、若干、その道のプロからする間違っている箇所もあるかと思いますが、

 

これまでは、過去の棋譜と呼ばれる対戦経緯や、定石の学習を行い、つまり人間の模倣をいかに上手にできるか、と性能(棋力)を上げてきました。

 

 

この手法では、マシンの性能が上がれば、やがて勝てるのではないか、程度の見込みがあったのですが、極めて進歩が、棋力の向上が遅かったのです。

 

ところが画期的な手法が発見され、それが劇的に性能を向上させました。

 

 

盤面、つまり、駒の配置を点数化した上で、秒間数十万手計算という、マシンの性能を活かし、全可能性を探索する、という手法です。

 

コンピューターは人間の模倣ではなく、将棋という競技や対戦相手は関係なく、ただひたすらに、盤面を点数化して、より良い点数の可能性だけを計算する事になりました。

 

人間には想像もできなかった新しい手(配置)が生まれるだけでなく、更には、なんでこの配置になると良い(点数が上がる)とコンピューターが判断するのか判らない、というケースも生み出しています。

 

人間には不可能なアプローチが、人間を圧倒しているのです。

 

 

 

 

従来の戦術とは何が異なるのか

 

 

定石(セオリー)の習得でとどまるのではなく、盤面を点数化(採点)する手法を採用した上で、その手法(採点方法)を基礎として、本当にそれは正しいセオリー(より良い点数化が出来る配置)なのか、といった再検討から、もっといい点数があれば、そっちを選択しても構わない。

 

 従来の戦術とは何が違うのか、という問いに、「選手はもっと柔軟性のあるプレーができる」と彼が答える意味がここにあります。

 

 

つまり、監督は、盤面(駒配置)の点数化方法と、良い点数が出しやすい解法を教えるが、最終的に、より良い点数の探索は選手に任せる、ということになります。

 

コンピューター棋士と、そのソフトを開発する人、という関係に近いと言えます。

 

 

・ 従来のチーム

駒(選手) 指し手(監督)

 

・ グアルディオラのチーム

駒&指し手(選手) 【何と呼んでいいか判らない役割※】(監督)

 

※ 私は時代を先取って、コーチ(監督)ではない新ポジションとして、グアルディオラを(仮)プログラマー と呼んでおきます。

 

 

 

同時に、この概念では、攻撃や守備という分類もなくなり、あくまでも、盤面が、より良い点数となる様な配置の模索と実行だけが行われるイメージとなります。

 

これこそが正に、ポジショナルプレーにおける『駒の配置から生まれる優位性がゲームの結果を決定するとされている』という概念に合致します。

 

 

この為、ポジショナルプレーに存在する3つの優位とされる、数的優位、質的優位、位置的優位、というのも、あくまでも盤面を点数付けする際に考慮する、ボーナスポイント程度の物と考えられます。

 

 

そして、昨日のゲームを観て分かる通りですが、習得の段階であるマリノスでは、まだ、より良い点数を出しやすい解法の消化に追われている印象があり、それはつまり定石の範疇であると思います。

 

 

例えば、サイドバックの動きは現在、象徴的でわかりやすいのですが、盤面の判定として、より得点が伸びる配置をグアルディオラの採点方法で考えた時に、従来のセオリーよりも、あちらの方が点数が伸びやすいから、ああなっている(採用している)と捉えるのが正しいと思います。

 

但し、現状では、ドル氏が発表会で提示した、リーダーシップ(選手の指し手化)ではなく、定石(監督によるオーダー)により為されている訳です。

 

 

 

ですが、この段階で、既にこれだけの変化が起きています。

 

 

 

 

そして抜群の捌きを見せた喜田は、この提案で復活を感じさせる働きを見せました。

 

 

 

 

残酷な基準

 

 

この手法には大きな落とし穴もあります。

 

セレッソばかりが決定機を迎えているようなハイライト動画があるようですが、ゲームを支配していたのは間違いなくマリノスであり、彼らの決定機は、殆どがマリノスが犯してしまった致命的なミスありきの物でした。

 

 

そうです、将棋とサッカーの大きな違いとして、駒は絶対にミスをしない点が上げられます。

 

駒がミスをすれば、点数が一気に激減する恐ろしさがサッカーには存在するという事です。

 

 

サッカーはミスありきのスポーツではあるのですが、許容されないミスとして、DFラインにおける誰にでも解るような致命的なミスが象徴的ですが、可能性を想定していなかったミスというのは、極めて危険性が高いです。

 

例えば、セレッソとのゲームでも、失った瞬間に周囲に誰もプレスに行けない位置にいる敵選手にパスカットされてしまい、DFラインが高く裏に大きなスペースを残し相手選手がそれを即座に狙う、というような状況が何度かありました。

 

残念ですが、主にミス率という部分で、駒としての性能が足りない選手は、対応できなかったという評価になっていくかと思います。

 

 

 

ありがとう英語教師

 

 

かつてもう一つ存在した横浜のサッカークラブに、FCバルセロナが窮地に陥った時だけ現れる、敗戦投手的なレジェンドであるカルロス・レシャックが監督として着たことがありました。

 

 

この野心的な試みが全く上手く行かなかったのは皆さんご記憶の通りですが、当時の問題点として、比喩的な表現をすると、

 

『宣教師は英語しか話さないし、聖書も英語でしか書かれていないのだけど、村人は誰も英語がわからないし、解ろうともしなかった。』

 

という要素があると思います。

 

 

この点、マリノスは、この3年間、極めて優秀な英語教師が最高の仕事をしてくれました。

 

実力はあったのに英語を理解しようとしなかった選手は居なくなりましたが、数々の犠牲者を生み出した暗い歴史を抱えているクライフ教圏においては、比較的マシな方と言えます。

 

 

『サッカーはスペクタクルではなければならない。そしてピンチもまた、スペクタクルだ。』

 

 

今年のマリノスはどうなろうと面白いに決まってる。

だって僕らの教祖がこれなんだもの。

 

 

覚悟しよう、我々は気がついたらスペクタクルの殉教者となっていた。